人格が、作品に、属する。
……いや順番が逆なのか?これもうわかんねえな。
そして、イマジンにはどれくらいのオノ・ヨーコ分が含まれているのか。すっっっごい嫌な言い方をすれば、ジョンは、税務署に対して、原材料: オノ・ヨーコという必要経費を認めさせることは「当時、でき得た」のか。フィクション作家の取材費的な意味で。リリース時の契約や水面下の圧力(知らんけど)みたいな部分も含めて。
もちろん、現在のオノ・ヨーコだって、イマジンの印税を過去に遡って請求できるとは思ってないだろうとは思います。心情的なことはともかく。
それを考えると、いわゆるクラシック音楽の時代に録音や録画の技術がなかったのはいいんだか悪いんだか。
あの頃はあの音楽が流行歌、時代の最先端だったわけで。
もっとも逆に、保存しておく手段がなかったから今でも伝統芸能として生き残れてるのかもしれません。例えば「今夜のバッハのアドリブ通奏低音はクールだった。録画スタッフがいなかったっぽいのが惜しい」とか、バッハ本人が弾いてた時代では起こり得ない。
でもこんな考え方も、きっと今だからだよね。
今どき、演者依存というよりは「テイク依存」な気もしています。
「作家に興味はない、作品に興味があるんだ」的な。
演者依存って結構コンセプチュアル。例えば、嫌な言い方ですけど、ジョンが本番当日に大風邪引いて喉ガラガラの鼻ズビズビ、頭モーローで歌詞は飛ばすわ音程はアウトだわ、という録音が存在したとして、それを予備知識なしで聴いたら「何これ、、、」だろうなとも思うんですよ。それを聞いちゃった人に対して、「いや、これはジョンレノンって人の曲なんだけど、これは『本当のジョンじゃない』、調子悪かったんだ」って必死に擁護する信者も湧くはず。
かくして、ジョン原理主義者とイマジン原理主義者とn年n月n日atドコドコ原理主義者が仲良く永遠に殴り合う。
東京さ行っで、あの子は変わっただ。
いや、それ、美化してない?って。
ホンモノ、ホントウのコト、とは。そして、「それ」を受け継いでいるのは誰か。
それが音以外のことであっても。例えば、嫌らしい話、もし、仮に、イマジンが他の曲のパクりだったら、イマジンの価値は落ちるのか。
また「同じような進行を、知らずに思いついた」場合はどうか。逆のパターンとしては、現代のシンガーソングライターが書いた曲の構造が「たまたまイマジンに似ちゃってた」場合はどうなるのか。電気グルーヴはセカオワのパクりくらいで済んでくれればいいけども。
そして、それらの「結果」は、各人の感情の中で修正し得るものなのか。
以下蛇足。
シンガーソングライターって基本的に自作自演、自分自身(の声)を楽器として使うことを想定していて、つまり当て書きみたいな部分がすごくあるので、うまくいったら人間国宝だし鳴かず飛ばずならダメ人間、みたいな部分ありますよね。
作品単体を譜面に起こした時の評価は実は結構どうでもいいの。
一方、カバーを先に聴いた人が原典を聴いた時に「……原典ショボい」みたいなことになることも往々にしてあって。刷り込みって怖い。下手すると、原典のほうが「ダサいカバー、未熟で未完成な作品」と受け取られかねない。
もっともここは時代なりのアレンジみたいな部分も大きいはずとも思います。例えば、さらに逆に言えばファミコンソフトの移植。だって、あの解像度やBGMは、今の完全新作ゲームだったらああはしないはずだから。やるとしてもノスタルジーや過去へのエキゾティシズム込みという演出意図があるはず。
蛇足2。
いわゆる再現の印税って、自作の時とカバーの時では違うのかしら。作者が演るほうが価値があるなら、値段も高くないとおかしいよね。その辺も契約毎に違うのかしら。あるいはライブは一律にカバー扱いで、単純にチケット代や当日分の出演料に何となく乗せちゃって何となくこのくらい、あの曲を書いた人は後で接待しときますね、とかなのかな。では逆にライブで自作の新曲をお披露目してライブ盤に収録したんだけど妙に評判がよくて、それを急遽、後日スタジオで録って別のアルバムにも収録して売った場合は。
文芸作品の朗読なんかもそうだな多分。「この部分で作者はどんな感情をどんな抑揚に込めて発声していたか140字以内で答えなさい。なお、本番で噛んだ部分については考慮しないものとする」
その辺はズブズブのガバガバな気はする。こんなもん、いちいち数値化できる気がしないし。